「漂流家族」という竹下家のファミリーを採り上げた「ザ・ノンフィクション」というノンフィクション番組を知っているでしょうか?
田舎移住ブームの時代の流れの中で、都会から田舎へ移り住んだ典型的な家族を描いています。
フィクションの内容を簡潔に4つの文章で示せば、下記のようになります。
- 8人家族の竹下家が埼玉から北海道へ田舎移住
- 移住条件の家の建築をして8年間北海道で生活
- 突然の退職を期に勢いで北海道から埼玉へ戻る
- 不況下で経済的に困窮しながら埼玉で暮らすが…
以下では、「漂流家族」のあらすじとノンフィクション・ストーリーのポイントを中心に紹介します。
北海道浜頓別への移住
竹下家移住の時代背景
1980年代後半バブルの真っ只中だった。
そのバブルが弾けて、平成不況の時代へ変遷していきます。
そして、1990年代の田舎暮らしブームが起こり、時代の流れにのみ込まれていったのが竹下家一家。
田舎移住ブームは、過疎化で悩む田舎の謳い文句とマッチして、山村留学の誘致合戦が各地で始まっていた。
埼玉県川越市から北海道浜頓別町へ過疎の町の誘致計画を経て移住したのが竹下家一家。
竹下家一家は2000年4月に北海道浜頓別に家族で移住したのでした。
竹下家が移住することに至った切っ掛けは街が募集した山村留学。
山村留学(さんそんりゅうがく)とは、都市部の小・中学生が長期間に渡って親元を離れ、自然豊かな農山村や漁村で生活をすること。
(引用元:Wikipedia)
「暮らしませんか、北の台地で。」というパンフレットの言葉に惹かれた竹下家の主人。
移住する特典として、町が土地を無償で提供する替わりに、移住後3年以内に家を建てることが条件。
当初、住むことになったのは海に近い、町が用意してくれた住宅だった。
この住宅は、実質的に、住居費は無料。
平屋の3DLで32坪と小さな子ども6人と夫婦で住むのであれば比較的広い家。
そのため、子どもたちは埼玉の住宅より広いことに喜んでいた。
ところが、この無償の家に住むことができるのは3年間だけ。
移住してきた世帯は3年間の内に自分の家を建てることが町との約束となっていた。
竹下家の家族
- 竹下 勝裕(40歳)
- 妻 敦子(35歳)
- 長女 恵美(10歳)優しい
- 次女 愛美(10歳)おてんば
- 三女 成美(9歳)マイペース
- 四女 望美(7歳)のんびり屋
- 五女 瞳美(4歳)六女と喧嘩をよくする
- 六女 秀美(2歳)五女と喧嘩をよくする
勝裕さん(23歳)と敦子(18歳)はともに東京育ちで、練馬のスナックで出会い、平成元年6月に結婚をした。
同棲をしている間に、双子の出産を切っ掛けに結婚をした。
その後、次々に女の子が生まれ、女の子ばかりの6姉妹。
子供好きなお父さんは子どもが生まれることを喜んだ。
越谷では2LDKのマンションに住んでいたが、8人で住むには手狭だった。
なぜ、北海道に移住するのかという問いに対して、竹下さんは以下のように答えている。
「よく言えば、静かなところで暮らしたい。悪く言えば、都会から逃げてきた。」
「(子どもたちは)都会で学べないこと、自然の中で学べることとかが多いので…」
実際に、北海道の田舎に来てみると、都会では考えられない思いもよらないことばかりだった。
北海道の田舎で夢と現実のギャップを思い知らされることになった。
北海道に移住して、一番の問題は、働き口がないこと。
町の斡旋で何とか就くことができたのは、産業廃棄物処理の仕事。
正社員ではなく季節雇用の形態での勤務だった。
竹下さん「北海道ならではの、田舎暮らしのような仕事が一番良かった。都会にいるのと同じようにあくせく働かないと食べていけない。それがやっぱり現実だった。」
この仕事は季節労働のため、冬までで雇い止めとなり、その後は、また職探しをしなければなりません。
竹下さん「冬場は仕事がなくなったら、生活どころか、凍死しちゃうよ。」
敦子さん「思っていても、口に出さないで。」
竹下さん「そうなちゃうよ。」
敦子さん「そういうところで、微妙に意見が食い違う。」
子供たちは、北海道の暮らしで、毎日、発見の連続だった。
秋には近くの川で鮭が遡上するのを見て興奮、
冬には湖に美しい白鳥が飛来、
オホーツクの流氷を背景に、
雪の中をはしゃぎ回り、
子供たちには絶好の遊び場だった。
生まれてはじめてのスキーを体験するなど、北海道に来て以来、いろいろなことを知った。
北海道の移住先では、冬になると氷点下20度にもなります。
竹下さんに解雇通知が出されると、次の職探しをすることになります。
子ども達が通学する小学校までは歩いて30分の道のり。
子ども達は歩いて通学するだけで体の芯まで凍りつきます。
北海道だと不便なことが多い、埼玉に戻りましょう、それは無理だという、冗談とも本音とも受け取られる会話のやり取りが現実を良く示しています。
初めての冬で竹下さんは、既に後悔をし始めていた。
家を建てなければならないという町との約束がプレッシャーとしてあることを示唆しています。
実は、北海道の田舎での暮らしで、食費は埼玉より掛かってしまうことが分かってきた。
野菜が高いと愚痴る敦子さんの手元では、レタス1玉338円、愛媛産ハウスみかん1パック498円と映し出されています。
それもそのはず、輸送費がかさむため、北海道の物価は以前住んでいた埼玉と比べると、価格が2割~3割高くなる。
四国産のハマチを手にとって、100gあたり465円、一パック304gで1,414円の商品を見て、値段が高いことを示唆しています。
北海道の冬の時期は気温が低く、室内は寒いため、暖房費は削ることができません。
冬の時期には職が少なく、竹下さんも仕事を見つけられないため、家計は苦しくなる一方でした。
それにもかかわらず、新品のパソコンを使う敦子さんの映像とともに、家電製品を買ってしまったことを伝え、貯めていた貯金を使い果たしてしまったことを示唆しています。
「支払うものを支払えば、後はどうでもいいタイプ。何とかなると思っていれば、何とかなりますね。」
3年以内に家を建てる資金が必要なのに、お金があれば使ってしまうという敦子さん。
2001年元旦
北海道に移住して、はじめての正月。
家族8人で食卓で、おせち料理を囲み、あけましておめでとうございますと言う家族。
父親から子どもにお年玉を渡し、家計は苦しくても、子どもたちのために、これだけは…。
竹下さんの冬場の仕事が決まった。
敦子さんの愛妻弁当を持って、竹下さんは初出勤。
地元の仕事を見つけたことで、父親だけが出稼ぎに行って、家族が離れ離れになることは避けられた。
竹下さんの新たな仕事は、工事現場での車の誘導をする交通警備員。
氷点下10度を下回る中、一日中、外での立ち仕事は厳しい。
2003年 移住して3年経過
竹下家は北海道に移住して3年が経過し、竹下家には家を建てるという約束の時期が近づいていた。
浜頓別町では国鉄がなくなり、NTTがなくなり、営林署がなくなる。若者が出て行くのが一番の住民の打撃となっている。
いっそう過疎化が進み、3年前には8,000人いた住民は半数になってしまっていた。
地域住民と移住者との交流会を映し出しながら、町に移住してきた人は少しづつ増え、4家族23人が移住したことを伝えている。
移住して3年が経過して、竹下家も家族ともども地域の一員となっていることを伝えている。
4家族の内、2家族は町との約束通り、既に家を建てていた。
今までの移住者の中で、家を建てるという町との約束を破った家族はない。
これが竹下家のプレッシャーになっていた。
竹下さんは産業処理会社のマネージャーになり、敦子さんも同じ職場で仕事に就くことができた。
竹下家の子供たちについては、長女と次女は中学へ進学し、五女も小学校に入学したため、何かとお金が掛かるようになっていた。
そんな状況のため、思うように貯金ができないのが実状。
家を建てるためには、2000万円が必要だった。
3年が経過すると、町から無償で借りている家も出なければならなくなります。
竹下さん 「町の補助金を出しているわけだから、みんなの税金を使っているわけでしょ。このまま家を建てなかったら、これからの山村留学の活動も進まなくなる。」
困り果てた竹下さんが頼ったのは近所に住む牧場主の桜庭さん。
桜庭さんは、竹下さんが移住してから、何かとお世話をしてくれた人。
竹下さんは桜庭さんに住宅ローンの保証人になって欲しいことを依頼した。
実は、桜庭さんは牛舎の拡大などで一億円近い借金を抱えていた。
それでも、桜庭さんは地域のためになるならと、竹下さんの住宅ローンの保証人を引き受けた。
桜庭さん「地元の人間がならないと、保証人になってくれる人がたぶんいないと思うので…。信頼関係しかないので、僕も(保証人に)なる以上、竹下さんを信頼している。」
こうして、竹下さんは30年返済の2000万円の住宅ローンを組むことができた。
竹下さんは桜庭さんの信頼に応えるためにも、月々、キチンと返済していかなければなりません。
竹下さんは家族を前に、「重大発表!お家を立てようと思います。」と家屋の設計図を広げる。
新築のマイホームを想像して、家族で将来の夢が広がります。
自分の家を建てることは人生の大きな喜びの一つ。
冬の訪れ前に完成するため、新築工事が始まりました。
ところが、この新築のマイホームが、後々、竹下家を窮地に追いやることになります。
が、この時は誰もそのような窮地を知る由がなかった。
2003年10月
新居となるマイホームの骨組みが完成した。
近所の人から次々と新居祝いが届けられます。
上棟式の日、敦子さんは大量に料理を作ります。
子ども達は縁起物の準備をしています。
この地域では新築祝いの上棟式では5円玉入りの餅を屋根の上から投げます。
立てる家が末永く無事であることを願って行われるのが上棟式。
近所の人を集めて、新居となる家の上から餅を投げる竹下さん。
今思えば、竹下さんにとって、人生最良の瞬間だったのかもしれません。
建前の祝いには地域のみんなが祝ってくれました。
竹下さん 「盛大にみんな来てもらって、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。」
竹下さん 「俺一人だけだったら、家は無理だったかもしれないけど…、やっとここまでたどり着いたって感じです。」
工事が始まってから3ヶ月が経過して、待ちに待った新居が完成しました。
ところが、これが新たな困難の始まりだったのだった。
2003年12月
竹下家の新築のマイホームは、下記の通りです。
- 4LDK
- 40坪
- 2000万円の住宅ローン
- 対面キッチン
- 子ども部屋はロフト付き
引越し時には、住宅ローンの保証人になってくれた桜庭さんが酪農用の大型トラクターで大型冷蔵庫を運ぶのを手伝ってくれています。
桜庭さんは、文字通り、竹下家の恩人です。
新居のためにソファーなどの家具を買い揃え、35万円~36万円掛かったとのこと。
こうして、夢のマイホームでの生活が始まった。
ところが、この家族の幸せは長くは続かなかった。
つまづきの始まりは、竹下さんの会社で始まった人員整理だった。
職場でのスタッフが減ったため、一人ひとりの仕事の負担が増えた。
その上、会社の上層部が現場責任者の竹下さんを無視して、仕事のスケジュールを決めるようになった。
この時の竹下家の月収は、夫婦共働きで手取り36万円ほど。
家と車のローンが1ヶ月18万円。
竹下さんは仕事での現場責任者を辞めたかったが、手当てが減るため、言い出せないでいた。
子どもの成長とともに、お金が掛かる時期になる。
新居になって、はじめての正月を迎え、家庭内がギクシャクし始めます。
切っ掛けは、長女が料理中に豚の角煮を焦がしてしまったことに、竹下さんが怒ったこと。
実は、竹下さん自身のイライラが、子ども達に向かってしまったいました。
竹下さんのイライラの原因は職場でのストレス。
そんな時、職場を混乱させているのは竹下さんだと言う苦情の電話が入った。
そして、会社に対しての不信感を理由に、竹下さんは夫婦そろって会社に辞表を出した。
この時点での竹下さんの気持ちとして、出稼ぎでも何でもして、北海道の家を諦めなるつもりはなかった。
竹下さんは夫婦そろって、桜庭さん宅へ足を運び、仕事を辞める経緯について相談に行った。
桜庭さん 「6人のこどもかかえて、ローンかかえて、やっていけると思っているのか?これから東京行ってよう、やっていけます!?」
竹下さん妻 「うちの人はあの家を守りたいだけなんです。」
桜庭さん 「敦子さん、格好いい話ばかりするな!」「現実をもっと見ろ!」「闘え、逃げないで。」「許さないからな。」
敦子さんから新たな事実が告げられた。「埼玉にいる時に、一度、マンションを持ってかれている…。だから、こっち(北海道)に来て…、だから、家は絶対に手放さない。」
桜庭さんの妻「東京に行ったら、二重生活になるわけでしょう。一生それを続けるの?」
桜庭さん「4年前、どういう思いで、こっちに来た?負けになっちゃうぞ!意地があるだろ!他の移住者や町の人に対して…。許さないからな!」
結局、竹下さん夫婦は会社に対して、辞表の撤回を願い入れ、会社の上層部も理解を示してくれた。
この時、竹下さん一家の危機は回避されたかのように見えた。
2008年(移住後、8年経過)
2008年3月、浜頓別高等学校で子ども達が巣立ちの時を迎えた。
北海道に移住した時、小学生だった長女と次女は、もうすぐ社会人になります。
一方、浜頓別の町はいっそう過疎化が進んでいた。
竹下さんは産廃施設の運営を任されるまでになっていた。
ところが、不景気のため仕事が激減している状況。
高校を卒業した長女・恵美さんが一人暮らしを始めることになった。
長女の恵美さんの引越し先は浜頓別町の隣町の枝幸町。
枝幸町は日本でも有数の毛ガニの産地。
恵美さんは水産加工会社に就職が決まりました。
落ち着いた生活だと思われていた竹下家に激震が起こったのはその直後。
竹下さんの職場で新たな展開が起こっていた。
会社は新たな業務拡大を計画していたが、人員は増やせないという状況。
現場責任者の竹下さんは、このような状況に反対して、会社上層部と何度も対立をしていた。
竹下さん 「今月いっぱいで(会社を)辞める。」
竹下さんと敦子さんも夫婦そろって、会社へ辞表を出した。
収入が途絶えるということは、家族の生活が大きく変わると言うこと。
退職金の話とか、全部片付いたら、東京に引っ越す。
北海道で仕事をするといっても仕事がないため、東京に戻ることを決意する。
会社を辞めて、桜庭さんに報告に行ったが、桜庭さんは既に退職の事実を知っていた。
信頼関係しかないので、住宅ローンはしっかり返していって欲しいと言う桜庭さん。
それに対して、竹下さん 「信用してくれとしかいえないし、裏切らないように…。」
2008年5月8日
隣町に引っ越していた恵美さんも戻ってきて、家族一緒に東京へ戻ることになった。この時、竹下さん47歳。
マイホームの前で家族で写真を記念撮影して、8年間暮らした家とはしばらくお別れとなります。
桜庭さんは今回は敢えて引き止めることなく、家族みんなで働いて、住宅ローンの借金を返してくれると思ったため。
北海道の家を出て、着いたのは埼玉県越谷市。
この時、日本は大不況のさなかでしたが、借家の家賃とマイホームの住宅ローンの二重払いで苦しい生活が待ちかまえていました。
家族で働いて、北海道のマイホームを守るために、働く子ども達は、生活の苦しさを感じていた。
漂流家族~竹下家の9年・埼玉偏~
2008年5月
埼玉県越谷にて、竹下家の新たな生活は始まりました。
北海道を出る前には仕事も決めず、住居も決めずに、埼玉へ来た竹下さん。
まずは、埼玉での住居探しが始まりました。
敦子さん 「予算的に合わないのと、即入居ができない。」
行き当たりばったりの夫婦は、不動産仲介会社を梯子しますが、入居審査がなかなか通らない。
貯金の残高証明書を持って、不動産屋と交渉し、敷金・礼金で退職金の半分に当たる50万円が掛かった。
借りられた住居は家賃9万円の一戸建て、北海道の部屋の半分ほどのスペースのため、かなり狭く感じると子ども達が不満を漏らす。
引越し後には、布団、家財道具、テレビまで購入して、飛ぶようにお金が出て行きます。
竹下さん、敦子さん、恵美さんは家族そろって就職活動を始めて、正社員を希望しています。
高校生だった三女と四女も高校を休学して、アルバイトに専念することになった。
小学生の五女と六女は新しい小学校へ入学した。
竹下さんは面接の結果、土木の仕事に就くことができ、日給一万円だが、希望通りの正社員として採用された。
長女は事務の仕事を希望して、就職活動をします。
自宅で家族全員でお父さんの誕生日祝いで、大きな声でお祝いしていると、隣人からうるさいと苦情が浴びせられ、北海道との違いを感じる家族。
敦子さんも飲食店でパートの仕事が決まり、月10万円の収入になります。
次女はラーメン屋でアルバイトをして、毎日勤務すれば、月10万円の収入になります。
高校を休学した三女と四女もファミリーレストランでアルバイトの採用が決まります。
アルバイトでも頑張れば月10万円の収入になります。
そんな中、長女だけ面接を受けた引越し会社から不採用通知を受けるなど就職が決まらない。
次女、三女、四女はアルバイト代を受け取り、稼いだお金を家計に入れます。
長女は派遣社員形態の携帯電話ショップのスタッフの面接を受けたが、父親は正社員に就いてもらいたいため反対。
竹下さんの給料は日給制正社員のため、勤務日が少なく、手取りで22万円だった。
家族みんなで働いているため、世帯の月収は50万円になります。
竹下家の家計は食費は月6万でやり繰りして、家と車のローンで最低でも24万円が必要。
竹下さんの仕事は土木業で、日給制のため仕事の日数が少なくなると、給料も少なくなります。
また、日給制のため6月になり雨の日が多くなると、仕事が休みの日が多くなり、給料が少なくなります。
竹下さんはイライラが募っており、長女がまだ就職が決まらないことに怒り散らします。
末っ子の誕生日に、鉛筆をプレゼントをし、お祝いのために外食をすることにした。
埼玉に来てから、外食をする日が多くなり、家族一緒に外食をすれば、一回2万円ほど掛かります。
住宅ローンのの返済は大丈夫なのか?
竹下さんは北海道では現場責任者だったが、埼玉に来てからは平社員のため、指示される立場。
そのような職場での仕事上で我慢できないことがあり、またしても仕事を突然辞めてしまいます。
埼玉に戻り3ヶ月後
家族の苦難を乗り切るために、働くことに専念し、三女と四女は高校を退学することになった。
実際には、彼女達は高校に通いたかったため、親の事情で通学できなくなったことに不満を持っています。
竹下さんは正社員にこだわり、なかなか仕事が見つけられません。
そんな中、運悪く、リーマンショックが起こり、社会は大不況の時代へ。
そして、あろうことか、埼玉に来て以降、北海道の住宅ローンを全く支払っていなかったのだった。
既に、半年分の住宅ローンの滞納の状況でした。
北海道の桜庭正昭さんは竹下さんの携帯に電話をしても、全く連絡が取れない状況に心配を募らせます。
桜庭さんは竹下さんの北海道の住宅ローンの保証人です。
桜庭さんは竹下さんの未払い分の住宅ローンを銀行から迫られていました。
とうとう、桜庭さんは北海道から出てきて、埼玉の竹下家を訪れ、竹下さんに会いに来ました。
突然の訪問に竹下さんはビックリします。
桜庭さんは竹下さんに対し話しかけます。
桜庭さん 「俺に何か言うことある?」
竹下さん 「すみません。」
迷惑を掛けないと言ったのに、6ヶ月間の滞納により、迷惑を被っていて、既に1か月分の滞納分を支払っている。
家をどうするつもりなのかを聞きに来たと迫る桜庭さんに対して、竹下さんは手放すつもりはないと言い張ります。
お金を払わず、手放すつもりはないという竹下さんに対して、呆れて、桜庭さんは怒りを堪えて…。
桜庭さんは家を手放したくないなら、ローンを払え、一家の大黒柱として、責任ある対応を取れと告げる。
桜庭欄との話があった後、竹下さんは見習い扱いの仕事を見つけて、働き口を得ました。
2009年正月
埼玉に戻ってきて、はじめての正月を迎え、家族そろって初詣へ出かけました。
おみくじを引いて、良い年になりそうだと…のんきな家族。
月末にはローンの支払いが待っています。
リーマンショックで大不況の真っ只中で、桜庭さんに今の状況を分かってくれればいいけど難しい、と呟く竹下さん。
刻一刻と、約束のローンの支払いの日が迫っていました。
そんな折、お金が足りなくて、夫婦喧嘩が始まり、妻に対して、出て行けと怒鳴りつける竹下さん。
敦子さんは逆ギレして、「ゴォラァ!出て行くぞ!」と粗ぶれます。
娘がブチ切れて、夫婦喧嘩の仲裁に入ります。
三女(成美さん)と四女(望美さん)は定時制高校を受験し、合格します。
五女は小学校を卒業し、中学生になった。
子ども達のことが落ち着き、敦子さんは北海道浜頓別に行きます。
再び、家族の夢だったマイホームを訪れたが、北海道を出てから一度もローンの支払いをしていなかった。
桜庭さんのお宅に敦子さん一人で訪問して、家の今後のことについて相談します。
桜庭さん 「一番腹立だしいことは、できもしないことを言うな。子どもじゃないんだから、大人なんだから。1万でも2万でも少しでも、俺から借りたお金を返すとか、これをローンにあててくださいとか。そういう誠意が見られないだよ。一切。それが腹立だしい。人間としての最低限の誠意がないんだ。あなたたちには。」
桜庭さんから戒められ、敦子さんは謝るどころか、口答えをします。
ローンの延滞金がかさみ、負担が増えるばかりのため、桜庭さんは家を処分することを提案します。
何のために、家族一家が移住してきたのか分からない、余分なものを残して、帰ってしまったから…。(桜庭さん)
結局、北海道にある竹下さんの家は桜庭さんがローンを払い続け、竹下家のものではなくなります。
家財道具や家に残したものの片付けをする中で、思い出のモノが次から次に出てきます。
最後に、玄関にある「竹下」の表札を外します。
家族全員で暮らした8年間を思い出して、幸せだったと思い出し、妻の敦子さんは涙を流します。
敦子さんは北海道から戻り、8日後に、仕事先を辞めて、突如、姿を消してしまいます。
敦子さんがいなくなり、竹下さんはただただ後悔している。
敦子さんから連絡があり、いつ戻れるか分からないが、ただ時間が必要だとのシーンで番組はエンディングを迎えます。
漂流家族が教えてくれた教訓
私なりに、このノンフィクションを見た感想と示唆していることから得られた教訓を書き留めておこうと思います。
- 都会暮らしの人が田舎へ移住
- 田舎暮らしの厳しさ
- お金のリテラシーが低い
- 生き方や人生に無計画
- 職場でのトラブルで仕事を直ぐ辞める
- 親の経済力は子どもの人生に影響する
- 連帯保証人になってはいけない
都会暮らしの人が田舎へ移住
都会暮らしの人が田舎へ移住するケースは1990年代のバブル崩壊以降に始まりました。
田舎暮らしの人が田舎へ移住する切っ掛けとなるのが、竹下さんが言っているように、のんびりと田舎暮らしがしたいというイメージ。
実は、田舎暮らしでのんびりと生活できるのは非常に裕福な人に限られます。
誰でも、のんびりとした田舎暮らしができれば、全国で過疎化が起こるはずがないのです。
多くの人が都会に流れ込み、都会の人口密度がこれほどまで高くなるわけがないのです。
経済的に裕福な人だけが、田舎でのんびりとした生活ができるのです。
その他の人たちは、田舎に移住すれば、朝から晩まで仕事をしている人ばかりです。
田舎暮らしの厳しさ
漂流家族は田舎暮らしの厳しさをよく表しているという点では、とても参考になりますね。
仕事が極端に少ない
特に専門的あるいは特別なスキルがなければ、田舎へ行けば、就ける仕事が極端に少なくなります。
田舎で最も優遇された仕事は役場などに勤務する公務員で、その他には高齢化が進んでいるため、看護師や介護士などの需要が比較的高いだけです。
その他の仕事は公共工事の土木作業や林業になり、多くの人は農業に携わっているのが実状です。
生活環境が厳しい(特に寒い地域)
冬の生活環境が厳しく、竹下さんは凍死してしまうといっていましたが、都会と比べると生活環境はとても厳しいのが実状。
特に、北海道、東北、北陸などの冬期に積雪がある地域は田舎の移住先として考える場合は慎重に考えたほうがよいでしょう。
冬の時期は期間もない長いため、暖房のための燃料代や電気代だけでも、生活費が高くなります。
物価が高い
意外と知られていないことですが、田舎の物価は高いのが実状です。
食品スーパーやショッピングセンターなどまで車で気軽に行けるのであれば問題ありませんが…。
辺ぴな土地で大きなお店が近くにない場合は、相対的に物価は高くなるのが一般的です。
また、通販ショッピングで買い物をしても、届けられるまでに日数が掛かることも多く、エリアによっては配達料金が高くなります。
町民との人間関係
町民との人間関係については、あまり多くは語られていませんでしたが…。
一般的に、都会など外部から移住してきた人に対しては、とても警戒するのが田舎の人の特徴です。
漂流家族での桜庭さんのような面倒見が良く、真摯に都会から来た人のことを思って、保証人にまでなってくれる人は皆無です。
むしろ、保証人を頼んでくるような人は、田舎では特別扱いを受け、色眼鏡で見られることが多いのが実状。最悪の場合は村八分にされることも。
子どもの選択肢
漂流家族を見ていて気が付いたことですが、田舎暮らしでは子どもの選択肢を極端に狭めるのではないかなと感じた次第です。
このフィクションの中では、丁度、長女が卒業して暫く経過したくらいに、埼玉に戻ることになったため、あまり子どもの選択肢には関係がないかもしれませんが…。
そのまま北海道の田舎に住み続けていたら、6人の姉妹は全員、北海道の片田舎でカニの加工会社のような仕事をすることになったかもしれませんね。
食品加工会社が仕事先として悪いわけではなく、子どもの選択肢にスポットを当てると、学べる教育も狭められますし、卒業後の仕事の選択肢も少ないですね。
お金のリテラシーが低い
漂流家族の両親は非常にお金のリテラシーが低いのが残念ですね。
家も自動車もローンで購入して、月に18万円のローン返済。
お金があれば、家電製品を買ったりして使ってしまい貯金はゼロ。
特に、妻が家計を守っているのに、家計管理が全くできていない。
北海道から埼玉へ戻る時にも退職金で引越し費用をまかなう。
北海道から引っ越す時には家を引き払うのではなく、ローンを抱えたまま住居費に二重の支払い。
いずれも、長期的なお金の管理ができていないことが示唆されていますね。
生き方や人生に無計画
40歳で姉妹6人の子どもを抱えて田舎移住。
47歳で北海道から埼玉に家族一緒に出戻り。
埼玉に戻ってからもローン返済を滞納。
職場でのトラブルで仕事を直ぐ辞める
北海道でも埼玉でも仕事が長続きしないで、人間関係に消耗して、直ぐに退職。
いずれも、社会的ステイタスを、どんどん下げる行為を連発していますね。
親の経済力は子どもの人生に影響する
竹下家は埼玉に戻ってから、三女と四女が高校を休学した後、経済的理由で退学をしなければならなくなりました。
本当は高校に行きたかったのに、やむを得ず退学しなければならなくなってしまい、涙が出てきました。
親の経済力で子どもの教育の機会を逸失して、子どもたちのその後の人生に影響を受けてしまうことは本当に悲しいですね。
連帯保証人になってはいけない
最後に、桜庭さんの人柄が良すぎるのか、全く縁もゆかりもなかった人に対して連帯保証人になったのが悲劇でしたね。
連帯保証人にだけはなるなという言葉を言われた人も多いのではないでしょうか?
連帯保証人になると、債務者が支払いをしない場合、債務者の資産の有無に関係なく、保証人に返済の義務が発生するということを忘れてはいけないでしょう。
漂流家族を見て最も大きな学びは、ローン支払いの尻拭いをさせられた桜庭さんの連帯保証人の契約でした。
最後に重要なことですので、もう一度言っておきます。
「連帯保証人にだけはなるな!」